今、推しがいない

今、推しがいない。

アイドルや漫画家、小説家、声優、あるいは現実の好きな人。誰かを推して愛を注ぐことが当たり前だと信じて疑わなかったし、推しという言葉を知る由もなかった幼少期からずっと、そういう「誰か」に没頭している人生だった。

推しは男性でも女性でも誰でもよくて、恋に近いような感覚に陥る。でもけして恋愛的に結ばれたいとは思わない。
彼らや彼女らに、時間もお金も、すべてを捧げていた。そのことが当たり前だと思っていたし、そうすることで彼ら彼女らがより一層輝けば幸せだと思っていた。


近頃はずっとうちわを振っていた。左手に深夜に作ったうちわを、右手に安い双眼鏡を持って、彼の背中を追うのが楽しくて仕方がなかった。ファンサービスがもらえないとか、そんなことは関係がなかった。
熱を帯びた思いという意味においては、恋だったけど、恋愛の意味ではなかったし、見返りは欲しくなかった。心から。
ただ「あなたを応援している人間がここにいるよ」というメッセージを込めて、ずっと彼を見ていた。

うちわを下ろして、双眼鏡を持つのをやめたのは、別に嫌いになったからじゃない。嫌になってもいない。
彼が新しいステージに行ったな、と思ったからだ。
胸を張って、人生で一番、世界で一番、彼が好きだったと言える。どんな場所にいてもきらめいていたし、どんな瞬間も愛しかった。
そんな彼が、わたしの想像を遥かに超えた大きな一歩を踏み出そうとした時に、わたしは期待や高揚感ではなく、不思議な安堵に包まれていた。
そうすると思ってたよ、と言いたかった。それくらい目で追って、それくらい愛を捧げてきたつもりだ。

たぶんわたしは、自分が心から満足できるくらい、彼を読んだのだと思う。
わたしは他人を一冊の本のように捉えていて、人を好きになるということは、お気に入りの本ができることに近い。
どんなふうに生きていくのか、ということは、そのまま、その本のその後の展開に関わってくる。
わたしはあの時、次のページをめくらずに読めてしまった。それは喜びと同時に、もういいかな、という気持ちを誘うものでもあった。
これから、この本がどんな物語を辿るのかを知りたいという欲求よりも強く、今は、一番素敵な物語のままで本を閉じておきたいと思った。


推しがいない生活というのは、存外寂しいものだ。
元からお金の管理が得意な方ではないので、別に貯金が著しく増えたりするわけでもない。ちょっといいコスメや洋服を買ってみても、それをおろすのを楽しみにする日が今はなくて、むなしくなったりする。

最初は「推しはわたしです」って言えるくらい自分に時間もお金も手間もかけよう、と思っていたけれど、向いていなかったというか、単に楽しくなかった。
じゃあ恋愛の方に、と思ったけれどそれもあまりはまりきれない。というか、はまろうとすると絶対にろくなことにはならないな、という予感がしている。一応彼氏を作ろうという意思を見せようとして(誰に?)アプリを入れたりもしたのだけれど、すぐにアンインストールの刑に処された(わたしの手によって)。
じゃあ別の「誰か」はどうだろう? と考えていろんな人を見ていろんな人を読んだけれど、彼を見つけたときほどピンとくる人はいなくて、ただただ困った。
読書はどうだろう? 知識も増えるし、趣味の合う人も増えそうだからいい、と思ったのだけれど、やっぱりはまらなかった。大好きだけど、行為は「推し」にならなかった。


無理に特定の誰かを推したりしなくてもいいということはわかっているのだけれど、推していないと、不安になる。
誰かを推していない自分の人生に、価値があるのか? と真剣に考え込んでしまう。
わたしは、自分の人生が無価値なんじゃないか、という不安を拭うために、他人の人生に没頭していたのかもしれない。

トリップ感を、味わいたいのだ。そして現実のわたしを忘れたい。
一冊の本を一気に読みきる時に、周りの音も何もかも聞こえなくなるように、「誰か」に溺れて熱を上げたいのだ。恋は盲目の法則で、何も見えなくなりたい。
それは一種の中毒のようなものだから、推しがいないと不安になる。

でも、これがひとりで立つということか、とも、思ったりする。
強烈に寂しくて唐突にむなしいけれど、風の冷たい日に思い出す顔や名前がひとつもないけれど、「誰か」の、「他人」の人生に乗らずに、なんとかぐらぐら立っている。

時間もお金も手間も、すベての行く先の選択権がわたしの手の中にある感じがする。本当はずっとそこにあったのだけれど、わたしは考えることを放棄していた。


今は、推しがいない。